特集記事【株式会社鷹丸/株式会社鷹丸鮮魚店 相原】タカマル鮮魚店が提示する、サステイナブルな魚屋のあり方

鷹丸鮮魚店 FoodMedia

プロフィール

株式会社鷹丸 代表取締役 相原 正孝(あいはら まさたか)

1972年生まれ 兵庫県尼崎市出身

俳優を志し上京。結婚をきっかけに魚屋に転職。のちに独立し、タカマル鮮魚店を創業。
現在は7店舗を有し、うち2店舗が魚屋と居酒屋を融合した新形態の店舗となっている。

■企業HP

https://www.takamaru-inc.com

タカマル鮮魚店について

ー珍しい業態の飲食店を経営されているとお聞きしています。

はい、うちのお店には一部魚屋と居酒屋を融合させた店舗があるんですが、これはもともと僕に新しい形態の鮮魚店をやりたいという意向があったからなんですよね。僕はそもそも魚屋の人間なのですが、やはり個人のお客様が魚屋に来ることがどんどん減ってしまっていて、なんとか新しい魚屋のあり方を提示できないかと思って、続けているのがタカマル鮮魚店です。

お店をオープンしたのは2007年ぐらいでしたが、ありがたいことに店舗数は7つになりました。日本の魚食文化の発信ということで、アメリカへの進出も真剣に考えています。

 

一家離散。そして俳優業から魚屋への転身

幼少期から俳優時代について

ー魚屋になる前は何をされていたんでしょうか。

魚屋の前、実は俳優をしていたんです。これは話し出すと少し長くなってしまうのですが、もともと僕の出身は兵庫県の尼崎市という街でした。年の離れた弟と両親という一家だったのですが、父の仕事がうまくいかず、毎日借金取りが家にやってくるという日が続いてました。

それで中学生くらいの頃、ある日いきなり両親が家から消え、音信不通になってしまいした。いわゆる蒸発というやつですね。当時弟はまだ赤子同然だったので、弟は施設に引き取られていったんですが、僕はそれが嫌でそのまま実家に住むことにしました。

とはいえ、中学生が収入もなしに一人で暮らしていくのは無理なので、近くの居酒屋で住み込みバイトを始めるようになり、そのうちバイト先を転々としながら暮らすようになりました。

そんな生活を送りながら高校を卒業するくらいの年齢になったころ、仲の良い友人の一人が「俺はダンサーになる」と言い出したんです。やっぱりこのくらいの年齢になると物心がつき始めて、自分も何かしなきゃと思うようになり「じゃあ俺は俳優になる」とか言って俳優を目指すことにしました。

あいつがダンサーなら俺は俳優だなくらいの軽い気持ちだったんですが、思いつきとはいえ東京に行くためのお金を貯めて、オーディションを受けてみたんです。俳優に関しては素人だったんですが、どうにかオーディションにも合格して、そこから東京での生活が始まりました。

 

魚屋への転身のきっかけ

ー俳優時代の生活はどうでしたか。

かなり大変でしたね。初めは芸も所作も身についていないので、スタントマンみたいな危険で体力のいる役が多く、先輩から芸について教わる毎日でした。

睡眠時間もろくに取れず、自分の芸については叱咤されるばかりで心が折れそうになりましたが、自分にとって大きなチャンスが舞い込んできた実感はありましたし、何より親の二の舞にはなりたくないという思いが強かったので、死に物狂いで特訓に励みました。

すると2~3年したぐらいから芸も身についてきて、役も少しづつ増えるようになってきたんですが、そこで同じ役者として出会ったのが今の妻です。

当時から付き合っていたんですが、役者生活が5~6年目になって、結婚も考えようかというところで、役者と夫婦生活は両立できないなと感じたんです。結婚するなら普通の生活を送れるような仕事に就かないといけないと思って。

それで、事務所からは二人で逃げるように辞めてしまって、就職先を探し始めることになりました。それが20代半ばの頃だったんですが、幸いにも魚屋の社員の募集がすぐに見つかり、就職することになりました。これが僕の魚屋生活の始まりということになりますね。

 

独立の理由

ー魚屋の仕事はどんな感触でしたか。

かなり良かったですね。俳優の下積み時代の経験が生きたのか、入社してすぐバリバリ働けたおかげで、1年もすれば店長を任せてもらえるようになっていました。収入もそれなりにあって、生活にも困らないくらいで勢いもあったんですが、ある時その会社の社長が跡取りに入れ替わって、扱う魚の質が落ちてしまったんです。

いわゆる採算重視の方針へとその会社が舵を切ったんですが、それ以降に入ってきていた魚の質は、まぁひどいものでした。ちょっとこれはお客さんには出せないなっていうものしか入ってこなくなってしまって、社長に直談判してどうにかならないものかと説得してみたんです。

その時は入社してすでに何年か経っていて、社内でも部長クラス、いわゆるバイヤーとして魚の買い付けにも携わっていたので、それなりに話を聞いてもらえる立場にはあったのですが、数時間の話し合いでも折り合いをつけることができませんでした。

もはや新社長に対する説教みたいになってしまったんですが、結局そんなに自分の意見があるなら自分で店をやれと言われ、半ば喧嘩別れのような形でその会社を辞めてしまったんです(笑)ただその時はそれなりに稼ぎもあったし、次の仕事を始めるまでそれなりに食いつなげるだろうと思ってたんですが、実はその時点で貯蓄はほとんどなかったということが辞めてから判明しました。妻にお金の管理を任せていたものですので本当に驚きました。「貯金ないのか!?」って。

景気が良かった頃に家を買ったり、子供ができたり、妻の親戚を呼び寄せたり、あとは音信が途絶えていた母と連絡が繋がったということもり、僕一人の収入で家族全員の生活を支えていたので、妻いわく「お金はまったく余らない」とのことでした(笑)
なので貯蓄も無しにいきなり収入が途絶えてしまったものですから、そこから生活を立て直すのにはかなり苦労しました。

朝は新聞配達でバイトしてから正社員採用された居酒屋に働きに出たりとせわしなく過ごしていたんですが、ある時親戚からパソコンをもらうきっかけがあって、試しにネットで知り合いからもらったマグロのカマを売ってみたんです。

するとこれが思いの外大きな収入になって、1日あたり2~3万売れることも珍しくなくなっていきました。マグロのカマの仕入れは僕がすでに築いていたルートでタダ同然で手に入れることができていたので、売り上げはほとんど僕の懐に入る、というビジネスが成立していました。

そんな魚類関係のネットビジネスが軌道に乗ってきた頃、たまたま大手小売店の流通を担当する機会を得ることができたんです。いわゆる流通下請けの仕事ですが、これをきっかけに築地市場に顔を出すことも増えてきました。

 

ー築地市場は元から顔が利いていたいたのでしょうか

いえ、築地市場は下請けの仕事を始めてから顔を出すようになりました。すでにベテランが多い、ああいった市場は新参者にとってはまず顔を覚えてもらうのが大変なんです。セリに参加しても、顔なじみでないと入札させてくれないので、なんとかそこにコネのある業者の名前を借りて、セリに参加したりしていました。

そうして下請けとしての築地の仕事もうまくことが運ぶようになっていって、契約も満了という段階に差し掛かりました。本格的に自分の魚屋を始めることになったのは、このあたりからですね。

 

 

タカマル鮮魚店の背負う、魚屋としてのミッション

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ー1号店は新宿にあるお店ですよね。

そうです。18坪ほどのテナントなんですが、魚屋の隣に居酒屋があるような形態でやらせてもらっています。そのころは卸の取引をしていたこともあって、お金には若干余裕が生まれていたんですが、結局2000万ほどお金を借りてオープンすることになりました。

 

ー開業に際しての思いはどうでしたか。

やっぱりサラリーマンで魚屋をやっていた頃の思いを捨てきれずにいたので、どうにかしてそれが実現できないかと悩んでいた結果、あのような業態に落ち着いたというところがあります。いきなり新宿で魚屋をやっても人が来ないだろうと思い、魚屋の隣ですぐにさばいた魚を食べられるというユニークな形式です。

ただ、最初の何ヶ月かはほとんどお客さんが入りませんでしたね。魚屋としての経験は豊富でも、実際にそれをお客さんに食べてもらう飲食店の経験は皆無だったので、料理も何を出せばいいのか分からないし、そもそもほとんど料理ができないという感じでした。

ただそれでも魚を捌く技術はありましたし、美味しい魚をすぐにさばいて刺身にして出せば喜んでも頂けるのは強みでした。他の料理は来てくれたお客さんのアドバイスを聞いたり、妻の母に料理を教えてもらいながら、少しづつ腕を磨いて充実させていきました。

新宿なのに金曜日の夜でもガラガラという日もありましたが、3ヶ月を超えたあたりからお客さんがぞろぞろときてくれるようになりました。もう店にお客さんが入りきらないなっていう頃、近くの角にある物件が空いたんです。

そこは前々から出入りの激しい店舗で、なんの店をやっても開店と閉店を繰り返すような物件だったんですが、まずはやってみようということでオープンさせました。

オープンして当初は、やはり1号店と一緒でお客さんが来ることもなく、僕も自ら呼び込みに参加したり、マグロの解体ショーなんかをやったりして宣伝に精を出していました。

それでもお客さんは来ず、30万の仕入れに対して5万の売り上げになってしまうということもあったので、いっそのこと食べ放題千円でお客さんを呼び込んでみようと思い切ったんです。

するとみるみるうちにお客さんが入るようになって、瞬く間に行列のできるお店になりました。平日の街なんですが、そのうちに日曜にもお客さんが列を作るようになっていって、今や定番のお店になってくれましたね。

 

海外に日本の魚食文化を伝えたい

ーその後も店舗を順調に増やされていっていますね。

おかげさまで。ただ僕自身は2店舗目をオープンさせた時点で、実は包丁1本持ってアメリカに飛んで行ってしまいました(笑)。というのも知り合いの人にアメリカで日本食レストランをやりたいと言っていた人がいて、現地にあるお店を買い取って僕がそこの店を担当することになったんです。

結果的には一旦引き上げという形で中断していますが、今後の可能性を見出す事ができました。というのも、ロサンゼルスのトーランスという場所で展開を行い、1店舗で月に200万ほどの利益を出すことができ、本物の日本人が経営する魚屋(飲食、小売ともに)の海外展開に自信を持てました。

そこで、アメリカで1億円の粗利が出る仕組みをつくろうと、一旦アメリカ事業を休眠し、日本で「三位一体」の「新しい魚屋」を構築したあとに、その実績をもとに再度アメリカ進出を行うことにしました。

今では、すでに現地の日本ブースのコンサルのような案件は受けていて、来年の4月ごろに利益が出てくればいいなと思っています。

アメリカでは魚屋のような素材を売る仕事はお金になりにくいので、魚というよりも日本の魚食文化を売り込むという考え方にシフトしていっています。日本で魚屋は独自の文化としてはってしていっていますが、同時に魚料理も非常に海外ではスポットが当たっています。魚屋あっての魚食ということで、魚屋にもっとスポットが当たればという思いもありますね。

 

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減少する魚屋への思い

ー飲食店というよりも、魚屋としての自負の強さが伺えます。

これはどうにかしないといけないというのが僕の中に強くあって、自分の特技を生かして魚屋を再興するにはと考えていたんですが、1つの結論として、一次産業から六次産業まで、つまり魚を獲るところから食べるところまで、全てを僕自身でプロデュースしようと取り組むことに至りました。

魚屋の数が減っているのは、結局のところその職業によって適切な報酬が受け取れていないということにあると僕は考えています。

これは右から左に業務を流すだけでお金を取っている中抜き業が横行しているからなんですが、こういった業者から魚屋を守るため、僕が自分で漁業・流通・小売・飲食までを担当すれば、中抜き業者が立ち入る隙はありません。適正な価格でお客さんが満足でき、そして自分やその産業に関わる全ての人が適正な報酬を受けられる。この循環を守らなければというのが僕の思いです。

 

 

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分け隔てない満腹感で顧客満足の向上を

ー適正な価格はどのようにして決めるのでしょうか。

一言で言えば、お客さんの財布事情によりけりです。会社や自分がどれだけ利益を得られるかではなく、お金のある人もない人も好きなだけ食べて、満足して帰っていってもらえるような価格で提供できるのが適正と言えますね。

お手頃な価格を見極めるのも魚屋の仕事です。僕が一次産業から携わっているのは、この「お手頃価格」を肌感覚でしっかりと理解するためでもあります。昔は他の飲食店などにも魚をおろしたりもしていたんですが、魚をろくに扱ったことがなかったり、そもそも漁業の現場も見たことがないという業者が多くて、今ではそういった仕事も引き受けなくなってしまいました。

この「肌感覚」が身についていなければ、魚を適切な価格で提供することはできません。魚料理の顧客満足度や適正価格を追求すれば、結局は魚の良し悪しがわかるような経験が重要になってくるわけです。

適正価格とはいっても、ただ魚を高い値段で売りつければ良いというものでもありません。僕自身の経験でもありますが、まだ若かったりお金がなかったりする人にこそ満足してほしいという思いもあるので、彼らでも美味しい魚をおなかいっぱい食べられるよう、良いものをリーズナブルな価格で仕入れられるよう仕組み作りに取り組んでいる節もありますね。

 

-本日はありがとうございました。

 

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