特集記事【株式会社クライチ 酒井邦幸】「一杯の幸せ」をテーマに1人でもより多く幸せにしていく

プロフィール

株式会社クライチ 代表取締役社長 酒井邦幸(さかい くにゆき)東京都出身

幼少期から両親の家業・魚屋を手伝い、高校卒業後はホテルマン、プロボクサー、役者と異色なキャリアを経験し、ラーメン業界へ。

2008年に株式会社クライチを設立し、「一杯の幸せ」をテーマにラーメンと丼ぶりを提供している。

■企業HP
https://www.kuraichi.co.jp/

多感な少年時代

起業家精神が養われた幼少期

-幼少期はどのように過ごされましたか?

僕は男3人兄弟の次男で両親は町の商店街で魚屋を営んでいました。
小学校3年生~中学卒業までは地元の野球チームに所属していました。キャプテン・副キャプテンをやらせてもらい、リーダーとしての資質を学びました。学校から帰宅すると家業の手伝いをしたり、友達と外に行き自然の中で遊んだり、野球をしたりと、毎日このような活発な楽しい日々を、幼少期は歩んでいました。
年末年始になるとおせち料理に使う品物を並べたり、親父が築地へ仕入れにいくので一緒に行ったり。どうやって仕入れをしてお客さんに売るか、商売の原形を子供ながらに見て体験をしていきました。
両親が商売をやっていると、どうしても子供はその姿を見てしまう(笑)自然な流れでした。
今思うとそういう環境だったからこそ商売人としての経験が養われたんだと思います。

ーいつ頃まで家業の魚屋の手伝いをされていましたか?

小学校6年生くらいまで魚屋を手伝ったりしていました。
そして思いも寄らない出来事が起きました。ある日突然、親父の負債で、魚屋が倒産してしまったのです。
今でも鮮明に覚えているのですが、ある日学校から帰って来ると店の看板のところに、「本日で、お店を閉店いたします。」と貼り紙が貼ってありました。
翌日、学校に行ったら学校内に広まっていました。この時、家業の廃業を経験しました。とても切なく、悲しく、悔しい気持ちでした。
子供ながらに、自分自身が将来何かを立ち上げて独立をしたい。
この悔しい想いを何かの形でリベンジしたい。その時は何をやりたいかなどの
目標や夢は、定まってはいませんでしたが見返してやりたいという、気持ちが自分の心の中に芽生えていきました。
その時期は、自宅の電気やガス、水道が止められたり、大家さんが家賃を回収(取り立て)に来たりと、毎日が劣悪な環境で過ごしました。お金が無く、貧乏な時代を経験しました。
この時が一番悔しい時期だったかなと思います。
そこから父親はタクシーの運転手を始め、母親はヤクルトの営業販売員(自転車で運び営業をする)をやりながら夜は中華料理屋で皿洗いの仕事をし、朝から晩まで両親が働き、4畳半二間の小さなアパートで生活をしていました。

ー そんな幼少期に得たものとは何ですか?
今の与えられた環境をどう有意義に楽しみながら生活をしていくか、ということを得たのかなと思います。
時代はバブル景気に乗り、知り合いからの紹介で父親は魚をさばく腕は持っていたので奇跡的に魚河岸料理(割烹店)のお店を両親が任されました。お店も好景気に乗り、そこからまた両親が独立することになり、今現在、JR田町駅で居酒屋を営んでいます。30年間も営業を続けています。
高校生の時は、ファーストフードなどのバイトを掛け持ちしながら家業の手伝いもしていました。
皿洗い、調理、配膳、会計など飲食に関する業務を一通り学びました。これもまた、今に生かされていると思います。

他人とは違う道を選択

-高校生の時は、どのように過ごされましたか?
時代はバブル景気で湧き上がっていました。しかし素直に楽しめないというか、騒げないというか、みんなの行く方向には行きたくないっていう意識が強かったです。
常に人と違うことをしたい性格でした。
そういう高校生活でしたが、高校1年生の時に小学校からの親友がバイクの事故で亡くなってしまったんです。
人は死ぬのだと衝撃を受けました。
ここで初めて死に向き合いました。
そこから人生が大きく変わりました。
時間がない。何かをやらないと、生まれてきた意味がないんじゃないか?何か自分が出来る事で人に何かを与えられるような人間になりたいと強く意識するようになりました。
友達の大切さや、夢を目指す事の大切さなどを学んだ充実した高校生活でした。

-大きな経験(親友の死)から行動されたことは何ですか?
自分を変えたいと思い、ボクシングジムの見学に行きました。
一番精神的にも成長できるものが良いなと感じて、ボクシングジムの見学に行き、案の定すごい衝撃を受けて、翌日にすぐに入会をしました。
学校の部活は入らずに毎日ボクシングジムに通っていました。
始めてから3ヶ月後くらいにすぐにプロのライセンスを受けることになりました。正直早すぎると思いましたが高校生活の経験になるなと思い受けることを決めました。

 ー すぐにプロボクサーになったのですか?
いいえ。
案の定、ボクシングプロテストは不合格でした。
そこからジムに通い練習はしていたのですが、高校生3年生の受験、就職シーズンがやってきました。
本当は専門学校に行きたかったのですが、家計的に金銭面で断念をすることになり、就職することを決断しました。
ボクシングも一旦やめて大企業のホテルグループ会社にホテルマンとして就職しました。
大企業なので組織の重圧や人間関係は本当に大変な環境でした。
働いていくと徐々に、何か違うなと思ってきました。居場所が違うんじゃないかと思うようになり、自分自身で何かを成し遂げたい気持ちが芽生えていきました。
大企業にいても何かを成し遂げることは難しい(自分の肌に合わなかったんだと思います)と感じ、1年くらいで退職を決断しました。
それと同時にボクシングもライセンスを取れなかったのでもっと真剣にやりたいなとの思いが芽生え、もう一度ボクシングジムに通い始めました。

さらに茨の道のキャリアを歩むことに

株式会社クライチ 酒井邦幸

ホテルを退職、そしてもう一度プロボクサーを目指す

ー 退職してプロボクサーを目指した理由は何ですか?
退社直後にやっとプロテストに再チャレンジできることになりました。
今回はしっかり練習もでき有名なランキングボクサーともスパーリングも出来たので自信がつき、無事プロボクサーライセンスを取得する事ができました。
その時は、高校時代の忘れ物(プロボクサーライセンス)を取りに行きたかったんだと思います。
ライセンスに合格したので僕の中では目標を達成できたのですが、ある日会長とトレーナーから試合を組んだ。という話がきました。世界タイトルマッチの前座の舞台を用意するとオファーを頂きました。通常はそのような舞台は用意してもらえません。会長をはじめ周りからの期待もあり、試合をすることを受諾しました。

ー デビュー戦はどの様な試合でした?
超満員の中でのデビュー戦でした。対戦相手はプロ3戦目で格上の相手でしたが
19歳まで生きてきた全てを懸け、死に物狂いで闘いました。
結果は判定で負けてしまいましたが、4ラウンド闘い抜きました。
あの4ラウンドっていうのは自分の中でもやり切ったという達成感が残っています。
結果は負けてしまいましたが、悔しくて会長、トレーナーにもう一回試合をやらせてください。と直談判しましたが中々うまく試合が決まらず、移籍の問題も浮上し、折り合いがつかなくなり、ボクサーとして終焉することになりました。まだまだ選手として闘えたので、悔しい気持ち、後悔の気持ちが残りました。ちょうど20歳になっていました。

ボクシングの世界を終えて、次の世界へ

ー 厳しい世界を経て、次は何をやろうと思ったのですか?
自分の可能性をもっと試したいなという気持ちが20代の時はあって、極真空手を習いながら新空手の大会に(フリー枠)1人で参戦していきました。勝利の感覚やMVPも受賞できたり、敗北も経験したりと本当に色々な経験ができました。
空手の大会に出場しながら役者の事務所に所属をして役者の仕事(CM.雑誌.TV)もさせてもらいました。役者の仕事も色々な俳優さんとご一緒させてもらいながら勉強させてもらいました。これもまた良い人生の経験になりました。

ー ボクシング、空手、役者と経験してどのようになりたいと考えていましたか?
16歳~20歳まではボクシング、20代~30代の10年間はとにかく自分がやってみたいと思う夢をひたすら挑戦してみようと考えていました。
色々と経験させてもらったのですが。
何事もうまく進んで行かず長い暗闇の中のトンネルを歩いている感じでした。
どこにたどり着けば良いのか?自分の天職とは何か?
人に何かを感じてもらうには、どうすれば良いのか?
という自問自答の気持ちを抱きながら日々を生きていました。
これは全て自分自身が決めた事なので自分で突破口を切り開くしか解決策はありません。

26歳くらいの頃に役者の仕事、格闘技をやりながら、
3つのアルバイトを掛け持ちしながら、夢を追いかけて挑戦していたのですが、結婚を機に全てにケジメをつけ、その中のバイトの一つ(ラーメン屋)で正社員になりました。
経験を積んでいくと、社長から店を任される様になっていきます。
このラーメン屋の社長との出会いが後に運命を変えることになっていきます。

ラーメンの世界へ

異色のキャリアから、ラーメン屋へ

ー ラーメン屋ではどんな店長、仕事内容でしたか?
とにかく売り上げを上げる為には何をすれば良いのか?という事を念頭におき仕事をしていました。
経営のノウハウなどを学び、店を切り盛りしながら、社員、アルバイトさん達の1人、1人の性格を把握しマネージメントをしていく。そんな日々が続きました。
そして、お客さんの声を毎日聞いていくにつれて心境が変わっていきます。
自分のラーメンを作りたい!
世界で一つしかない自分のラーメン屋を作りたいとの想いが日々強くなっていきました。
さらに美味しいラーメンの味を求めてラーメン屋の仕事をやりながら、帰宅後は自宅で夜中までスープを作ったり、味を研究していきました。
この時に小学生の頃、経験した魚屋を廃業した時の悔しい気持ちを思いだしました。
今までの経験と悔しい気持ちを自分の店(独立)に懸けてみよう。
最後に自分の人生を懸けて挑戦しようと決意しました。32歳の時でした。

ー そこからどの様にラーメン屋を立ち上げましたか?
当時結婚もしていて子供も2人いました。
周囲から反対されましたが。頭を下げ挑戦したいと話し、家族も納得をしてくれました。
妻と家族には本当に感謝しています。
開業するには開業資金が必要です。すぐ行動に移しました。
ラーメン屋で社員をやりながら深夜のコンビニや日払いバイト、居酒屋バイトなどを掛け持ちして事業資金を貯めていきました。同時に物件探しもしました。
開業資金も300万円くらい貯める事ができました。
品川区の創業支援制度を活用しました。調理師免許も取得していたので審査面談はクリアできました。300万円の融資を受け自己資金合わせて計600万円で創業計画が整いました。
そして、決意をして(一こくラーメン屋)を退職し、独立を致しました。最後に送り出してくれた社長には感謝しかありません。そして念願の独立をします。
開業してから最初の1年間は、先ず睡眠が1日平均2時間くらいしか取れず、ネギを切りながら寝てしまったり、火傷をしたりと守られていた正社員とは全く違う環境でした。オープンするのは簡単ですが、日々続けて営業をしていくことは本当に大変なことです。記憶が思い出せないくらいの忙しい日々でした(笑)。
ここで生かされたのが16歳~20歳代で色々な夢に挑戦、経験、体験してきた事でした。
あの夢を追いかけていた気持ち、様々な人との出会い、悔しい気持ち、この20代の経験が無ければ踏ん張れなかったです。諦めたら終わる。やり続けるしかない。この気持ち一つだけでした。
600万円の開業資金しかなかったので、内装工事代金や備品代、保証金、等々はギリギリのラインで経営していました。厳しい経営状況でしたが、常連さん達が毎日笑顔で通ってくれ、ラーメンを認めてくれました。お客さんのお陰で何とか日々を乗り切る事ができました。

美味しいラーメンの味を求めて試行錯誤

ー どんなラーメンを目指していましたか?
化学調味料を使いたくなかったので無化調ラーメンを試行錯誤して作りました。
ところがデメリットとして劣化が早いです。
そうなるとお客さんが来店しない場合は、その日のスープが廃棄ロスになってしまいます。
スープに納得が、いかない日は休業にもしていました。
自分が家で研究していたラーメンと開業してオープンした店舗で作るもの全てが変わってきます。イメージ通りには、いきませんでした。今、冷静に考えると全ての原因がわかりますが、それを冷静に考える余裕がありませんでした。
環境も違えば、温度、湿度も違う、火加減のカロリー数も全く違うので、全く違う味になってしまったり、試行錯誤の日々でした。

ー 試行錯誤を繰り返して挫折はありましたか?
何回も壁にぶち当たりましたが、挫折という言葉は全く考えなかったです。
この天職(飲食店独立)しかないと想い全てを懸けて独立をしたので気持ちはブレなかったですし、心は折れなかったです。美味しくなるには、どうすれば良いのか?お客さんを喜ばせるには何をやれば良いのか?を常に考え前向きでした。
原価率などを度外視して、自分が納得した美味しいラーメンを作ることにだけに拘ろうと決め、スープの再開発に着手しました。
最初のオープン~6ヶ月間は大変な日々でした。毎日帰宅は深夜3時~4時、券売機も無く手書き電票、クーラーも壊れ厨房内は気温50℃になり、ドアも壊れ、お客さんも納得していない、笑顔で帰られていない、肉体的、精神的に疲れきりカウンターで寝てしまう日々が続きました。気持ちが落ち込む日々もありました。
そんな時、家族・親友・常連さん達の言葉が唯一の救いでした。
妻も子育てをしながら空いている時間は店の手伝いもしてくれました。本当に関わってくれた人たちに感謝です。
もう後ろを向いている時間はない、自分で決めた唯一の人生なのだから。
前に進むしか道はない。その気持ちだけでした。

新商品「チャーシュー丼」との出会い

株式会社クライチ 酒井邦幸 8

同級生の親友の協力

ー いつ頃からラーメンと店舗が安定してきましたか?
大体半年位からです。
オープンして6カ月位からスープも進化させ安定した味になっていき、珍しい食材を使用したりして徐々にお客さんが二度来店、三度来店をしてくれるようになっていきました。常連さんが通ってくれるようになりました。
そんな生活を毎日していきオープンしてから1年が過ぎました。
そして次の発展と進化をするべく、仲間とともにやっていこうと決めます。
自分が独立する時に1年間経営を続けることが出来たら必ず一緒に会社をやろうと決めた、高校生からの親友(三谷)がいます。彼は肉屋さんをやっていましたがそこが倒産をしてしまい。仕事が無い状況でした。自分が独立をするので後任として前に働いていた、一こくラーメン屋を紹介し、1年間修業をしていました。
すぐに彼を呼びたかったのですが、飲食店は厳しい業態です。閉店したら親友の生活まで影響を及ぼすのが嫌でした。
自分も1年間なんとか店を続けることができ、前のラーメン屋の社長に話しをしに行きました。話し合いをして了承を得て。三谷が、入社してくれました。
そこから二人で店の切り盛りをしていき、更にスープ、商品を試行錯誤しながら商品開発をしていきました。
味もブレが無くなり美味しくなっていき、お客さんが連日どんどん増えていきました。
彼が加入してくれたお陰で思考する時間もでき、店に活気が加わりどんどん進化していきます。
それが2年目くらいです。
ここから更に2号店、3号店と多店舗展開に進んでいきます。

ー 安定してからは、何か変化はありましたか?
自分はラーメンのトッピングで1番大事なポジションであるのがチャーシューと考えていました。そこからチャーシューを独自の味付けで美味しくできないか?と考え考案していきます。
ちょうど3店舗目で何のブランドをやろうかと考えていた時でした。
ある日、お客さんがチャーシューが美味しいことに気づき、「チャーシューをラーメンだけに使うのは、もったいなくない?」と言っていたことにピンときました。
これは、ラーメンだけじゃなく、チャーシューをブラッシュアップさせた商品ブランドは、できないのか?と考え。新しい商品ブランドを考案して生まれたのが「丼ぶり屋 幸丼」です!3店舗目からこのブランドをスタートさせていきます。

ー 「丼ぶり屋 幸丼」へのこだわりを教えてください。
チャーシューの柔らかさと、化学調味料、保存料、添加物などを極力最小限に使用して仕上げていきます。味付けの秘伝のタレは10年間継ぎ足しています。独創的な味付けがこだわりの商品です。子供から年配の方々まで食べてもらい、大手チェーン店には無い健康志向な丼が魅力です。
チャーシュー丼としての独創性もこだわりの一つですし、毎日煮干しで出汁を取って作った手作り味噌汁、そして極めつけが”1度で2度美味しい”をキャッチにした、スープ割り。
丼を1/3残してから煮干しの出汁をかけ、ゆかり、ワサビをつけて食べる。
スープ割り茶漬けです。唯我独尊のチャーシュー丼です。
数多くのTV.雑誌に出演させていただき、
2019年11月には、丼グランプリ(豚丼部門)で金賞も受賞いたしました。
2020年4月で10周年になります。

お店の在り方

顧客満足の秘訣は「一杯の幸せ」

ー お客さんに喜んでもらうための「仕組み」や「行動」など特にやられていることはありますか?
丼などに関しては、ポイントカードを提供したり、あとは「周年記念」を行っています。
各店舗の周年記念とかにサービス丼やサービスラーメンなどを提供、自分が直接店舗に出て創作ラーメンを作りに行ったりもします。
特に鯛龍(鯛だし塩ラーメン)は6年くらい前からやっていて常連さんの間では大人気商品です。
幼少期から自分探しをしていましたが、やっと自分を表現できる夢(生き様)を見つける事ができました。本当に幸運な事だと思います。
これも、周りの人達の協力、出会い、縁、があったからこそ、自分を表現できる場所を
見つけられたのだと思います。
「一杯の幸せ」をテーマに掲げて1人でもより多くの人達を幸せにしていきたい。
自分の人生の一番のテーマです。

目の前の1人の人を幸せにしていくと、道は拓く

ー 将来の目標とかビジョンはありますか?
また、起業したい方々にメッセージを下さい!

1人、1人、様々な人生があります。
それぞれの人の道(夢)を見つけられたのなら本当に幸せなことです。
継続は力なりで、一日一日長く続けていき、従業員達にも最低限の生活がしっかりとできるような仕組みを作ることがとても大切な課題だと思っています。
今後世界は変化の激しい時代に入っていくと思います。
AIが誕生してきて人間から機械(ロボット)に変化をしていきます。
この時代に合わせていくにはどうするべきなのかと考えていくと、簡素化はできると思うのですが、感動する気持ちは減っていくのかなと思います。人と争い、金や物に眼が行き過ぎる時代です。
結果を出していくことも大切です。結果を出したからといっても本当に幸せなことなのかなと思うように考えたりもします。13年間も独立して経営を続けられたのは、奇跡に近いことです。この奇跡を仲間と大事に守っていきたいです。これからの時代は、人との争いではなく、助け合いの気持ちが大切だと思います。
会社経営としては大きく展開して行った時に、様々なリスクが返ってくる。
展開して最初はうまく行っても、安定できずに閉店をしたりしていく飲食店がある背景を見ると従業員や業者さん達を幸せにできていない、展開すれば良いということではなく、売上が沢山あれば良いというわけでもなく、やっぱり目の前の1人の人をいかに幸せにしていけるかということを念頭にして日々精進して経営していきたいです。
毎日勉強になることばかりです。

“食”というものは人を幸せにできる素晴らしい仕事だと感じています。
勝ち負けの結果主義の世界ではなく“食感”という食を感じるという人間にしかない感情かなと思っています。
“らーめん幸龍”・“丼ぶり屋 幸丼”という日本ブランドを日本全国・海外の人々に少しでも届けていきたい。
“一杯の幸せ”を届けていきたい。その気持ちだけが心を動かしています。

“最後に起業したい方々や何かやりたいと思っている皆様へ”

自分みたいなちっぽけな人間が諦めずにやり続けた結果、素晴らしい仕事(生きがい)を見つける事ができました。諦めずにやり続け何度失敗しても良いです。何度でも立ち上がって挑戦する。違う道に迷いこんでいても諦めなければ自分の求めている道が必ず開け、最後に辿り着ける気がします。
挑戦する気持ちを忘れずに突き進んで欲しいと思います。
一度しかない人生。終わらない夢に向かって私も挑戦していきます。

ー本日はありがとうございました。

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