特集記事【株式会社ファクト 菅 在根】ターゲットに合わせた「場作り」の原点は子ども時代の原体験。夢を応援する社長の焼肉屋に対する思い

株式会社ファクト 代表取締役 社長 菅 在根(かん すみもと)

プロフィール

株式会社ファクト 代表取締役 社長 菅 在根(かん すみもと)

1979年生まれ 東京都新宿区出身

東京・新宿の中心地で「李苑 本店」、「300円焼肉酒場」、「カンビーフ」の3店舗を運営。「お客様が活き活きと生きることの源泉となり、幸せと感動を与え続けます」という理念のもと、肉バルと焼肉屋を通して温かな「場」を創造。
人材派遣業と飲食業の2つを事業の柱とし、「夢を追う人」を働き方から応援する。

■企業HP

https://fact-co.jp/

 

思いを共有できる人の存在で「悩み」が「豊かさ」に変わった

ー子ども時代のことを教えてください。

今焼肉屋をやっているのは幼少期が原点になっていて、実家が焼肉屋だったんです。小学校1年生くらいのとき、母方の祖父が焼肉屋をオープンしたんです。

家の隣で焼肉屋を営んでいたので、「商売をやっている」という感覚がすごく身近でした。子供ながらに網を洗ったり、グラスを洗ったりして、労働ではないけどお手伝いをしていました。飲食店そのものが身近な場といった感じです。

 

在日3世としての葛藤

在日3世で、30歳のときに帰化しました。韓国がルーツなので家では基本的に儒教(じゅきょう)の教えがありました。儒教は宗教ではなく、「思想」「教育」なんです。代表的な教えで言えば、「年が1歳でも上なら立場が何でも敬う」ことがあります。今は時代も変わったのでわからないところもありますけど、基本的に儒家思想は一世から父・母を通して教わります。

 

ー韓国の血に対して誇りや思うところはありますか。

30歳くらいまではほとんどなかったので、帰化しようと思ったんですよね。アイデンティティの確立の部分で、在日のだいたいの人が悩むんですよ。国籍とか血筋は韓国なのに日本の教育を受けているから、「生まれのルーツを大事にしたい」という思いと「自分は日本人なんじゃないか」という思いで揺れるんです。生きてる場所は日本だし、韓国語も話せないし。

自分から在日であることをオープンにしていたので、誇りはどこかであったのかもしれないですが、嫌だなと思う部分と良い部分が戦うんですよね。

 

変化のきっかけ

日本で生きていく以上、「韓国の国籍にこだわる必要はない」と思って、30歳で帰化しました。そのころ、在日の人が集まる会に出るようになって、在日であることが豊かさに変わっていくような体験をしたんです。安心感というか、自分を同じような辛かった思いとかを共有できる人がたくさん現れました。

 

ー学生時代のエピソードを教えてください。

小中は勉強しましたけど、高校はしなかったですね。中学生のとき、やんちゃをするのが怖くなって将来のことを考えるようになったんです。在日の家系って、早くから「将来どうするんだ」とうるさいんですよ。「日本の人と同じ土俵にいると思うなよ」と。「一歩先に行かないとダメ、すべてにおいて勝たないといけない」という教育をされるんですね。

それが根本にあるので、中学生の時点で「いい大学に行かなきゃ」と強迫観念的な逆算が始まって、中学2年生の時期に勉強を始めました。

 

念願の高校入学後、ギランバレー症候群で普通の生活もギリギリに

中学では野球部のキャプテンで、高校でも頑張ろうと思っていたのに「ギランバレー症候群」という病気になってしまったんです。人によって色々な症状があると思うんですけど、簡単に言うと体が動かなくなる病気です。受験が終わって「今から」というときです。プロ野球選手になるという目標があって、高校も志望校に合格したときです。

1年のときは、2学期まで体育はできなかったくらいでしたね。普通の生活もギリギリで、階段を登るのも大変でした。精神的にも病んでたと思います。

 

新しい仲間と音楽との出会い

ー大変な時期でしたが、どのように乗り越えたのでしょう。

野球は諦めざるを得なかったです。見てるのも羨ましくなっちゃうから嫌でしたね。でも高校で新しくできた友達が良かったんです。「別のことやって頑張ろう」と思えるような仲間ができて、バンドを結成しました。もともと中学のときにギターを弾いていたんですが、握力が少し戻ってきてからは軽音楽部でギターをやっていました。

気持ちはロックスターで、「大学行く奴なんてクソだ」みたいな感じでした。笑
今考えれば、「積み上げてきたのに、病気になって全部なくなってしまった。自分のやりたいことをやらないと損だな」という感情があったのかもしれないですね。

 

実家の焼肉屋がなくなり、「焼肉屋をやりたい」という思いが生まれた

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ー飲食をやろうと思ったきっかけは?

飲食店は人材業のあとに始めているのですが、実は飲食店をもつことを夢として持ったのはもっと前からなんです。

高校に入ったときに実家の焼肉屋が閉店したんです。地上げというか、条件としてはポジティブでより良い場所に移動したんですよ。

それで祖父が土地を売却してビルを建てたので、僕はビルの1階を焼肉屋にするんもんだと思っていたんですが、「焼肉屋はやらねぇ」と。急にお店がなくなったしまったんですね。
それが寂しかったので「いつか自分でやろう」と。

大学は行かないという選択をして音楽活動をしていたんですけど、4年くらいやってると詰まってくるんですよ。22歳くらいのころ、当時はバンドをやりながらバイトしてって生活でした。実家だったので15万くらい稼げば充分な生活ができちゃうんですよね。

J-POPをやっていればもっと夢を見られたかもしれないんですけど、ロックンローラーだったので「J-POPはクソだ!音楽は金じゃねんだよ」みたいな感じで。笑

大衆向けの音楽じゃなかったのでより一層食えなくて。そうすると22歳くらいのときに「本当にこのままでいいのか」と思ってくるんですね。

 

「うちの店はもっとうまかった」という気持ち

音楽をやめて「何かやることないかな」と探していたときに、以前焼肉屋に行ったときに「うちの焼肉はもっとうまかった」と感じたことを思い出しました。実家の店舗の食べたことのある友達からは「お前んち、おいしかったからもう一回やって欲しいんだよ」と言われて。そんな流れから、ぼやっとですけど「焼肉屋をやりたい」と言う気持ちが出てきたんですね。

 

昼はパチンコ屋、夜は牛角。貪欲に学び続けた

当時働いてたバイト仲間のお母さんが経営者で、「焼肉屋をやりたい」という気持ちを話したら、「日本で1番大きな焼肉屋はどこだかわかる?」と言われて。「牛角です」と言ったら「そこでバイトしなさい」と。「1番大きい理由がそこにあるからよ」って。すぐ応募して、パチンコ屋の派遣スタッフとしてバイトをしながら牛角でもバイトする、昼はパチンコ屋、夜は牛角という生活が始まりました。

 

ー牛角ではどんなことを学ばれましたか。

色々なことを学びましたね。牛角はちょっと特殊で、オペレーションが合理化されているので、肉は切らないし調理もほとんどしない。人によってスキルが少なくても即戦力になれるようなトレーニングも整っている。

1番大きかったのはパソコンですね。焼肉屋を立ち上げようと思っていたので、パソコンを使って何かしようと考えたことがなかった。でも、店長代理になって店舗を管理するとき、「焼肉屋をやりたいのにパソコンとか覚える必要ない」と言っていたら、店長に「何言ってんの、パソコン使えなかったら焼肉屋できないわよ」と言われたんです。

発注から何から全部パソコンだし、「使えなきゃまずいな」とすぐにパソコンを買いました。インターネットの繋ぎ方を覚えて、エクセル・ワードを覚えて。ハローワークの講座に通ったりもしました。

バイトの収入が22万円くらいのとき、20万円くらいのパソコンを買ったんです。当時は高かったんですよ。高いお金を出して買った以上、エクセルとワードくらいじゃ元が取れないなと思って。ホームページを作れるくらいになったらペイできるかなと思って、バイトしながらウェブデザイン講座に通ったんです。

 

パソコンを通して経営知識も吸収

その講座がパソコンを使って商売ができるように、というコンセプトで。税務とかマーケティング、経営も教えてくれたんです。そこに面白さを感じました。教わったことを牛角に照らし合わせると、「これからはみんなこうなる(牛角化する)な」と思って。

テクノロジーを使ってオペレーションコストを下げて、「多くの人に食べてもらうためにある程度のものを提供する」というコンセプトは、アリだなと思いました。お安いのでさすがに絶品とは思いませんでしたが、お客さんはいっぱいいましたからね。

 

調理を身につけ準備万端!だけど…

具体的なビジョンがふつふつと湧き上がってきたところで、「自分で店をやるなら調理をやらないと」と思って、当時働いていた派遣会社が名古屋に韓国料理屋を持っていたので、社長に「名古屋の店で働かせてください」と言って、行きました。本場の韓国出身のおばちゃんにイチから教えてもらいましたよ。

仕入れとか商品開発にも携わるようになって売り上げも上がったんですけど、家族経営で意見が通らないのと、赤字黒字も関係なくやってたので「これ以上勉強するならここじゃないかな」と思って、一年間ほぼ休みなしで働いた後東京に戻りました。

 

スタッフの立場になって改善ポイントを追求

東京に戻って、資金がなかったので社長に焼肉屋の立ち上げを打診したものの、あまり乗り気ではなくて。上司が「いったん人材の方で成果を上げて社長を説得しよう」と言ってくれたんです。それが24歳のときですね。人材派遣の仕事が始まって、各支店の中でナンバーワンになろうと頑張りました。立ち上げたばかりなので圧倒的にビリなんですよ、その時点では。でも1年くらいでトップになりました。

もともと自分が派遣のスタッフとして働いていたので、スタッフの立場で改善点を見つけていって。「自分がコーディネーターになるんだったらこうする」ということだけを全部やりました。半年程度でトップに近いところまでいって、そろそろ焼肉屋を立ち上げさせてくれるかなと思ったら、東京の業績はうなぎのぼりだったけど東海は下がっていて、「東海を伸ばしてくれ」ということになって。焼肉屋の立ち上げはかないませんでした。

仕事自体は楽しかったし、不満はなかったんですけどね。

 

お世話になった社長を助けるため、コンサル会社を設立。

ある時期から東京の法人の社長が会長と喧嘩して、東京はグループから外れてしまうことになったんです。僕はお世話になっていた社長に恩を感じていたので、仲良くしてもらう方法を考えたんですけど、そう簡単にはいかなかったですね。

東京が独立するときに、社長から「一緒にやってくれないか」と言ってもらったので、名古屋の会長に対してもお伺いを立てるため、2つを仲介するために2006年にコンサル会社を作ったんです。

2014年に震災やリーマンショックの影響がタイムラグを経て乗っかってきて、経営が立ち行かなくなりました。社長は静岡に住んでいて実質すべて僕がやっていたので、責任をとって外れることになったんです。「最善は尽くしてやりきったかな」と思います。

 

ー辛い時期も経験されていますが、今うまくいってるのは?

なんですかね(笑)社長じゃない立場だったので、実質社長なんですけど副社長で「こうしたらいいのに」と思ったことを提案しても、決裁権がなかったんですよね。大きいことをやろうとしても決裁権がなくてマインドが冷えるんで、部下に対しても「大きいことやれ」って言いにくくなるんです。それが2013年くらいまで続いてました。

今は、あのときがあったから今があるなと思います。社長の立場になってみて初めて、資金繰りの大変さも知りましたし。そんな中、色々提案されても決められないですよね。その気持ちが今ならわかるというか。

 

2012年、念願の焼肉屋をオープン

実は、2012年に念願の飲食店をオープンしていたんです。2010年のときに「本当に自分がやりたいことってなんなのか」と突き詰めたんですよ。それで、自分がやりたいことをやらない限りは人に対して「夢を実現しろよ」とか言えないよなと思って。

 

夢を追ってる人が働ける場所を提供したい

パチンコ屋の派遣で働いている子は、お笑い芸人とかバンドマンとか、舞台役者を目指してる子が多いんですよ。僕はその子たちを応援したくて。「うまくいく、いかないではなくて、夢に向かって頑張る子たちに経済的に安心できるプラットフォームを与える」というのが僕の考え方で、僕もそうやって働かせてもらっていたので。

だけど「当の僕が本当にやりたいことをやっていないっていうのはどうなんだ」、「焼肉をやりたいと思ってこの会社入ったよな」と思って。それで社長に「僕は個人でやります」と言って始めたんです。

 

周囲から「奇跡」と言われた初年度

ー飲食店をスタートされて、始めから良い調子だったのでしょうか。

震災後、経済が冷えていた時期に飲食店で利益を出すのは至難の技で、初年度はなんとかプラスで終えましたが、周囲に「奇跡」と言われました。戦略はゼロですね。念願だった、思いだけでやりましたね。場所は新宿で、父と母がやっていた「李苑 」という名前を踏襲して、母は今もここで働いています。

人材派遣業の方でもまた会社を立ち上げた時期に、同等の規模の会社からM&Aのお話があったんです。対等な合併なんですけど、むこうは売りたい状況だったので有利に話が進められたんですね。本当にラッキーで、これも「奇跡」と思いましたね。

 

成功のポイントと苦労

ー焼肉屋さんは今3店舗ですが、店舗展開はもともと考えていましたか。

なかったですね。焼肉屋をやりたいという思いだけでした。1店舗目の売り上げがどんどん上がっていったんで2店舗目もやっていこうと。お店に注力できるようになったので、バランスが良くなったんですね。当時まだ景気があまり良くなくて、家賃がめちゃくちゃ安かったんです。

 

ー店舗展開で苦労されたことは。

2店舗目は歌舞伎町で飲食店が多いんですね。場所的にはそんなに悪くないんですけど、2階という立地がお客さんにとって入りづらかったみたいで、それで苦戦しました。

3店舗目が肉バルの「カンビーフ」を新宿東南口に出して、ここが当たったんですよ。それで2店舗目も業態転換してカンビーフにしました。3店舗目は、1店舗目と2店舗がずっとやってきたことを一瞬で抜いちゃったんです。ノウハウが積もっていたこともありますね。

もともと店舗展開する予定がなかったので、増やしたらオペレーションがうまくいかなくなったんです。店舗を展開するノウハウを持った人がいなかったので、まとめるために焼肉の業態を厚くすることにしました。焼肉は調理がほとんどないので。

少し高級で上質な焼肉が本店、牛肉をメインにしたイタリアンの業態がカンビーフ、誰でも安く食べられる焼肉を提供するのが300円焼肉と、ターゲットを変えて新宿のお客さんを巻き取ろうという作戦に出ていますね。

 

ターゲットごとに求める体験は違う

 

ー顧客体験、満足度向上のために取り組まれていることはありますか。

ターゲットによって求めるものがまったく変わってきますよね。食べたものが美味しいのは当たり前じゃないですか。どんな場にしたらお客様が喜ぶんだろうと考えています。

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たとえば李苑本店なら、上質なお肉を手頃な金額で食べられるから、月1回のところを2回行けて楽しい時間を過ごせる。その中で、より良いものを食べたいという人も満足できる幅のあるメニューを提供する。「落ち着いた空間で上質なものを提供する。それでいて家庭的である」ことをコンセプトとしてやっています。

カンビーフは、若い子たちが手頃においしいお肉を食べられて騒げる居酒屋です。ちゃんとしたお肉が食べられる居酒屋で、飲んで食べて楽しめる。でも、料理はめちゃめちゃ真面目でこだわっている。若い女性がターゲットで、流行が早く入ってくるお店にしていきたいと思っています。コストはかかっちゃうんですけど、メニューも安い。地下2階なので伝わりづらいんですけど、めちゃくちゃ自信あります。

300円焼肉酒場は、焼肉という敷居の高いものを「誰もが気軽に食べられる」ことを大切にしています。300円で30分飲み放題、自分で作って、高くても3000円でおなかいっぱいになって帰れる。「安かろう、良かろう」の大衆焼肉酒場ですね。

 

飲食店は「場作り」が大事。そのルーツは原体験にあった

ー従業員教育、満足度を高める取り組みは。

ベンチャーの1番の壁って教育なんですよ。どうやってスタッフを育てるか。もともとうちが持っている良さは「個店の暖かさ」なので、一定のルールは守ってもらいつつ、やり方はある程度まかせます。

満足度については、企業理念をきちっと落としてますね。「なんで働くのか、なぜこの会社なのか」ということはトレーニングの時間を毎月設けて伝えています。

「企業理念」と「事業部理念」、個人の目的を明確にする「パーソナル理念」があり、企業理念と事業理念に対してパーソナル理念がどれだけ合致するかで働きがいが変わってくるという考えを持っていますね。

飲食事業部の理念は「お客様が活き活きと生きることの源泉となり、幸せと感動を与え続けます」というものです。飲食店は「場作り」が大事で、美味しいのは当たり前。お客様が何かのきっかけで来てくれたとき、食べた料理や空間によって「また明日からも頑張っていこう」と思って帰ってくれたらいいよね、と。

というのも、子どものころうちの焼肉屋に友達が家族で来てくれたという体験があるからです。店の隣が家なので、子どもも僕と遊んでる。来た人たちが楽しんでくれて、満足して、また来てくれるっていう原体験があるんですよね。

 

お客様の満足と感動のために、本来の良さを活かす運営スタイル

ー今後の展開についてお聞かせください。

業態があって再現性が低いものに関しては、個店の良さを活かせる場作りをしていくこと。それには「原価を上げてもお客様が満足できて感動できるものを出そう」ということ、「本来ある姿を大切にしながら運営していこう」ということがあります。

300円酒場は「誰にでも、いつでも、どこでも焼肉を」というコンセプトなので、FC展開する材料としてどう磨きをかけていくかといのが直近のテーマですね。

完全黒字まではもうちょっとなので、まずは達成して続けてからフランチャイズのガイドさんを入れて仕組み作りをしていこうと考えています。

 

ー本日はありがとうございました。

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