特集記事【株式会社イイコ 横山貴子】9回転職して辿り着いた!ブランド力のある店舗を手がける女性リーダー

 

プロフィール

株式会社 イイコ 代表取締役 横山 貴子(よこやま たかこ)

1963年生まれ 静岡県出身

渋谷区恵比寿を中心に、メニューやシステム、コンセプトにおいて独創性の高い4店舗の飲食店を経営。
複数のジュエリー・アパレル会社での企画・営業職などを経て、30代前半で現在の「中村玄」(中華料理店)の前身である「201号室」をオープンした。
飲食店経営のほか日本発酵文化協会を創設し、伝統食文化の継承と地域活性を目的とした社会貢献度の高い取り組みも手がける。

■企業HP

http://www.e-e-co.com/index.html

パワフルな子ども時代

ー家庭環境や子どもの頃のことを教えてください。

父が銀行マン、母が専業主婦という普通の家庭で育ちました。
ただ銀行なので転勤が多く、幼稚園は2回転園しています。
2回目の転園の後は家で過ごすようになり、おもちゃのピアノを弾いたりして過ごしていました。
小・中学校でも転校が多く、中学3年生の3学期、いわゆる受験前に転校したこともあります。

最近聞いた話ですが、父は「高校に入学してから転校させるよりも受験前に行った方がいい」と悩みに悩んで決断したようです。

父はその当時40代後半に差し掛かったころ。
最後にひと旗上げるチャンスがあったんですよね。
チャンスを逃したくないという気持ちは今なら理解できるんです。

当時、環境が変わることには然程抵抗はありませんでした。
新しい環境ですぐ友達ができたし、幼稚園に行かなくても引きこもってたわけではなく、楽しく過ごしていましたね。

 

ー強い子だったんですね。

強かったと思います。
転んでも泣かない。
妹がいじめられてると助けに行ったり、いじめてた子にやり返したりとかしていましたね。
ただ、高校に入るとすべての力が抜けてしまって、「勉強するってどうゆうことなんだろう?」「学校に行くってなんだろう?」と考えるようになりました。
学校が始まる前に喫茶店でアルバイトをしていました。
特に、部活の友達とも仲が良く、今も大の仲良しですが、学校は卒業ギリギリという高校生活でした。

 

ー大学時代はいかがでしたか。

最初、親の「大学くらい出ろ」という声に押されて受験し、受かったところに行きました。
入学してみるとすごくお嬢様学校で周りは「学校出て良いところに就職して、エリートの旦那さんを見つける」という人が90%くらい。
雰囲気が合わないし、勉強もする気ないし、だったら就職しようかなと考え、学費が半年単位だったので、半年で辞めました。

「就職するなら手に職つけなきゃ」と、専門学校でデザインを学ぼうとしましたが、母から「せめて短大に行け」と言われて女子美術大学短期大学部へ行くことにしました。
そこからはバイトしたお金を美大受験のための予備校につぎ込んで、高校の3年間は音楽を選択していたので本格的に絵を描いたことはなかったのですが、人間追い詰められたらなんでもできるなとちょっと思いました。

短大ではディスプレイや図面を描く学科にいましたが、やはりバイトばかりの生活でした。
でも課題があるから、友達と集まって必死にやったりして楽しかったですね。
普通の飲食店から時給の良いバイトを探すようになり、当時は女子大生がブランド化していたので、今で言うキャバクラのような女子大生パブで働いたこともあります。

 

20代で9回転職して気がついたこと

ー卒業後のお仕事は飲食関連ではなかったんですね。

洋服やアクセサリーを扱うブランドに就職しました。店舗のデザインをやりたくて入社したのに、配属先は新規プロジェクトチーム。
「衣食住だけでなく、“遊び“を提案していく」という方針でした。

クルーザーのような一部のお金持ちの遊びではなく、一般庶民でも手がとどく遊びです。
免許がなくても乗れるライトプレーンや、海辺にテントを張って過ごすといった遊びを企画・提案して、それに関わるアクセサリーや衣料品やライフスタイルを提案していくという。

今思えばすごく楽しそうなんだけど、当時は「デザイナーをやりたかったのに」という気持ちでした。
なので直属の上司とうまくいかなかったこともあって、半年で転職しました。
学生時代にバイトをしすぎて、目先のお金しか見えてなかったんですね。
5年、10年先を見据えた計画ってゆうのがあまり理解できなかった。
「自分のやっていることが会社の売上や利益に直結していない」と感じて、やりがいを見出せなかったんです。

その後はジュエリーを販売する会社や広告代理店など、20代のうちに9回転職しました。
働くことが好きで好奇心があったのと、就職には困らなかった時代だったんです。

 

最後に残ったのは「美味しいものを食べたい」という気持ち

ー自分でお店を出そうと思ったきっかけはありますか。

30歳になって、「私は人に使われてる限り満足しないんだ」と気がつきました。
でも何やっていいのかさっぱりわからずとりあえず起業するにはまとまったお金が必要と思って、3年で資金500万円を貯めると決心しました。

それまでお金はあればあるだけすぐに使ってしまうタイプだったのですが、貯金という目的ができると物欲が一気になくなって、服や車は「別になくてもいい」と思うようになりました。
ただ飲みに行くとか、人と一緒においしいものを食べるとかはやめたくなかったし、やめませんでした。
それで飲食をやっていくしかないと思ったんですね。

色々なお店に行くようになっていたので飲食店経営者の友人が増え、ノウハウを教えてくれたというのもあります。

 

ー1店舗目の出店後、続々とユニークな名前の店舗を出していますね。

1997年に1店舗目の「201号室」を恵比寿でオープンしました。
マンションの2階にあったから201号室。途中で名前が変わって、今は「中村玄」になっています。
業態も和食から中華、沖縄料理とリニューアルを経て、現在の中華になりました。

2店舗目は「続201号室」として出店して、今は「club小羊」になっています。
クラブという名前ですが、ジンギスカン屋です。

3店舗目は「村上製作所」。
中目黒の高架下に製作所があって、人の出入りが全然ないから大家さんを探して直接交渉したんです。
お客さんが多かったのでお隣も借りて4店舗目の「豚鍋研究室」をオープンしました。
村上製作所と豚鍋研究室は高架下の耐震工事までの期間限定でしたね。

5店舗目もジンギスカンで、ブームが去ったあとは中華の「月世界」になっています。

 

看板ナシ、メニューに値段ナシ、料理は美味しい、でも安い!

株式会社 イイコ 代表取締役 横山 貴子 4

「看板を出す」ということが自分の中で「なかった」です。
私自身がお店を訪れるとき、「あそこおいしいよ」と人から聞いたり、連れてってもらったりしていたので。
店が長く続くことに看板を出すか出さないかはあまり関係ない。
初期投資を抑えるために2階に出店したのも、かえって良い結果につながりました。

 

ー集客で工夫したことはありますか。

オープンした当初は友達や知り合いで賑やかですけど、4日目くらいからぱったり来なくなるんですね。
でも、看板出してないくせにチラシを打つのもダサいのでお店の前でキャッチをしました。

ジュエリー販売や営業の経験から「チラシをもらってくれても今ここで来なきゃ来ない」と思っていたので、「食べなくてもいいから店だけ見て」と声をかけました。

 

「びっくり」を提供する

九割九分の人は、マンションのドアを開けたら真っ赤なカウンターがあって、店が広がっているという状況に驚くんです。
メニューに値段は載せませんでした。メニューに値段が書いてあると、親しい人といれば安いものに目が行って安いものから頼んでしまう。
ちょっといい格好したいときは高いものから頼んでしまいます。
値段にとらわれず「食べたいものを楽しんで欲しい」と思っていたんです。

また、メニューに値段がないと「いくらとられるんだろう」とドキドキします。
でも、お会計してみると意外に安い。
「看板ナシ、メニューに値段ナシ、料理は美味しい、でも安い!」というストーリーを作ることで、人を連れてきたときに自慢できるという狙いがありました。
狙いが上手くいって、6割以上は3ヶ月以内にリピートしてくれてましたね。

 

店舗は人ありき、場所ありき

当時、料理はシェフに一任していました。
シェフは「自分が美味しい料理を出しているからお客さんが来ている」といった愚痴をお客さんにこぼしていていました。
もちろんその通りなのですが、店というものは料理ありき場所ありき人ありきコンセプトありきであることを共有できず考えが食い違ってしまうようになってしまいました。
でも自分は料理を作れないから、信頼できる友人を店長にして初めて料理修行に出ました。

和食屋さんにアルバイトとして入って、ホールで入ったのに「賄い作らせてください」「出汁の引き方を教えてください」と積極的に言っていたら、社員登用の話をいただいてしまいました。
そこで初めて状況を打ち明けると料理を教えてくれて応援してくれました。

 

ー店舗を続々と出店したのはなぜでしょうか。

「自分の居場所がないな」と思ったからですね。
マンションの2階に屋台を入れて、いざとなったら私1人でも運営できるものを作ろうと考えました。
想像以上に2店舗目がうまくいって3店舗目を出したとき、「店って自分がいなくても成り立つんだ」と気がつきました。

スタッフは一般募集をほとんどしていなくて、信頼できる友人・知人が手伝ってくれました。周囲に恵まれていたんだと思います。
店舗は人ありき、場所ありきです。店舗展開がしたいから必死になって場所や人を探したわけではなかったです。

 

ー出店の際の借り入れなど、リスクはどうとらえていましたか。

借り入れはしましたが、もともと使っていない物件で敷金礼金が少なく済んだことや、内装もお金をかけずにやったのでそれほど初期投資はかかっていませんでした。
お金をかけないことが面白いというのを知っていたんです。
続201号室も屋台を入れていただけでしたからね。

 

成功のポイントと苦労

株式会社 イイコ 代表取締役 横山 貴子 8

ー成功のポイントはどんなところにあると思いますか。

飲食店の経営者って数字をすごく見てるんですね。
でも、4店舗目くらいまではほとんど売り上げくらいしか見ていませんでした。
店長が日報はつけていましたが、そうゆうことよりも単純に「お客さんが喜ぶ楽しいこと」を重視していました。
細かいことは割とどうでも良くて、原価率は本当に気にしたことがありません。

 

ー苦労したエピソードを教えてください。

たくさんありますが、一番はジンギスカンブームが去った時期です。
ブームが終わる前にも新しく出店していたので、ブームが去ったら売上がどんどん下がって行きました。
するとあっという間に赤字になりました。1000万あった売り上げが900、800、700と下がっていくんです。

ブームが去ったら店舗を工夫してもどうにもなりません。
慌てて業態を変更しましたが、軌道に乗るまでは1年半くらいかかりました。
借り入れ限度額にもなってしまって、個人で入ってる保険を担保にして融資を受けたこともあります。

あまりお金で苦労したことがなかったので、「お金がなくなるってこんなに苦しいことなんだ」と実感しました。
稼ぎ頭だった村上製作所と豚鍋研究室が立ち退きで閉店した時期とも重なっていました。

 

ー苦しい時期でしたが、どこから安定し始めたのでしょう?

その後、祐天寺で鴨料理屋を始めたんです。
厨房機器はリースで、稼ぎ頭の2店舗がなくなっちゃったので、「やらなきゃな」みたいな気持ちでした。
また、飲食の経営だけでは浮き沈みが激しく、一本筋を通したいと思っていました。
最初は「びっくりさせること」をコンセプトにやっていましたが、これからの時代は美容健康を目的とした食の提案を大事にして行かないとと考えていました。

そこで鴨鍋屋を発酵食堂「豆種菌(まめたんきん)」にリニューアルして、発酵教室事業をスタートしました。
その2年後には日本発酵文化協会として講座を作って、資格取得ができるようにしました。
外食したいという人と学びたいという人は違うので、そこをつなげられればと思っていましたね。

 

健康意識の高まりで教室事業が好調に

東日本大震災のとき、外食や楽しむことを自粛するムードがありましたよね。その影響は大きかったです。
反対に、原発問題の影響で「自分や家族の健康を自分たちで守っていこう」という意識が高まったことで発酵教室事業が好調になっていきました。
資格をとっていただいて、その人が発酵の素晴らしさを伝えていければ、社会貢献ができるのではないかと考えました。

 

ー業態変更が多かったり、飲食以外にも色々なことをやるのが新しいですね。

時代に合わせてるとか追いかけるというよりも、半歩先くらいを見ていかないといけないというのは意識してますね。
今は物販もやっていて、「アパッペマヤジフ」は胡椒専門店です。
飲食店で、店としてのブランドを持つのもいいけど、「モノ」を作っていかないとと思っています。

 

店のブランドと想いを未来に継承するために

ー顧客満足・体験のために考えていることはありますか。

お客さんとの付き合いは「人対人」でもあり、「お店対人」という面もあります。ファンになってもらわないといけないんですね。
常に、「この会社なんかやってるぞ!」っていうのを発信すること。
流行っているからやるのではなく、深く追求することを大事にしています。

ジンギスカンにしても中華にしても「この会社のこの店に行ったら、この分野は間違いないぞ」「◯◯といえばあそこだな」と思ってもらえるお店にすることを大切にしています。
スタッフにもそこだけは絶対怠けるなと言っています。

 

ー従業員の満足や教育のためにされていることはありますか。

スタッフが何を求めているかを考えたとき、休みや労働時間は避けてとおれない時代です。
教育だけでは人はついてこないので試行錯誤しながら色々やっていかないとわからない時代なので、今の課題ですね。ただ、こんな時代だからこそ自社でしかできないことをやっていこうと思っています。

 

ー今後の展開について教えてください。

今は忙しくやっていますが、「社長をずっと続けたい」、「店舗をどんどん展開したい」という気持ちはないです。

ただ、みんなで一生懸命作ってきた「店のブランド」を未来にも残していきたいとは思っています。
この先、想いや店の基盤となるものを次世代に継承していきたい。

親の代に言っていた「これ面白いよ、美味しいよ」というものを子の代にも伝えられる店づくりをしたいと思っています。

 

-本日はありがとうございました。

Food Media(フードメディア)がお届けする飲食業界の最新ニュースや業界動向をお届けするWEBメディア

特集記事カテゴリの最新記事