特集記事【株式会社ウィルプランニング 横川 毅】50年続く店作りを志す飲食店経営者としてのモットー

株式会社ウィルプランニング 横川 毅

プロフィール

株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川毅(よこかわ たけし)

1975年3月12日生まれ 東京都国立市出身

すかいらーく創業者の横川4兄弟の四男・横川紀夫氏の次男。高校卒業後、様々な仕事を経験した後、飲食業界に進む。2002年、株式会社ウィルプランニングに入社。2007年に初めての自分の店である「BANQUE(バンク)」をオープンし、2008年にはウィルプランニングの社長に就任。現在は「NINJA(ニンジャ)」やBANQUEなど、計5店舗を経営。

■企業HP
http://willplanning.jp

すかいらーく創業者である「横川」の名前

-横川社長というとどうしても思い浮かぶのが、すかいらーく創業者の横川4兄弟です。横川という名は飲食業界ではビッグネームだと思いますが?

それは飲食業界の外の話ですね。飲食業界では全くそんなことはありません。飲食業界は、経済界や産業界などに全く興味がない人が多いのではないでしょうか。

私自身、20代のころに飲食店でアルバイトをしていましたが、すかいらーくの創業者の息子ではないかと聞かれることはありませんでした。

今でも他業種の方には、名刺交換の際に「もしかして、あの横川さんですか?」と聞かれることは多いですけど、飲食の人に聞かれることはほとんどありません。

 

横川家で過ごした子ども時代

幼少期に父との記憶はほとんどなかった

―幼少期は、横川家でどんなふうに育ったんですか?

父がすかいらーくを作ったのが1970年で、私が生まれたのが1975年でした。その時点ですかいらーくは全国に数十店舗しかなく、私が幼いときは会社がまだ成長過程にありました。

私が幼稚園生のころは、父親が特に忙しいときで、会っていた記憶が全くありません。小学校に入ってからも、家の中でも会うことはほとんどありませんでした。

 

―お父様は厳しかったですか?

自由奔放、放し飼いという感じでしたね。今の私もそうですが、子どもに構う暇がなかったんだと思います。

教育熱心というわけでもなく、教育に対する指針を示すようなことはありませんでした。うちは兄・私・妹の3人兄弟でしたが、それぞれが自分で考えて、全員違う学校に通っていました。

 

自由と自立について学んだ中高時代

―横川社長は中学から、私立の学校に通っていたんですね?

中学・高校は自分の意思で、私立の「自由の森学園」という中高一貫校に通っていました。両親は、私が私立に行くことを反対しませんでした。

この学校には校則が一切なく、「自由と自立」というのがテーマでした。ただし、自由であることは全て自己責任であるということです。ただ自由に過ごすのではなく、自由でいられる環境を維持することが大切でした。

生徒の自主性を重んじていて、学内全体で決まっていた部活の予算を、生徒だけで話し合って取り合いするような学校でした。私はテニス部の部長だったので、より多くの予算を取るために悪知恵を働かせたりしていました。このような経験も含めて、考える力をこの学校で学べたと思っています。

それからこの学校では、中間と期末のテストがありませんでした。それなのに、大学受験者向けに、なぜか偏差値がちゃんと出るんです。おかしいと思いましたが、社会に出ればおかしいことが多いですからね。だから、実社会を反映したような学校だったと思います。

飲食を始めたきっかけ

高校卒業後はスキーをやりたかった

―飲食を始めたきっかけは学校の影響ですか?

これは全く関係ありません。高校を卒業するころ、私はスキーにはまっていて、卒業後もスキーをやりたいと思っていたんです。

でもスキーには国家資格もありませんでしたから、リゾートバイトをしながらスキーを続けるくらいしか方法がありませんでした。父に進路を相談しましたが、このときは初めて反対されました。

最終的に、22歳までならバイトをしながらスキーを続けてもいいという許可をもらえました。そのかわり、22歳になったらきっぱり辞めろというのが父からの条件でした。

1年目はロッジに居候してバイトをしながらスキーをしていましたが、2年目からスキーのスクールや大会を開催している会社の社員になりました。23歳まで働きましたが、バブルの崩壊に長野五輪の終焉も重なり、盛り上がる要素がなくなってしまったことでスキー業界には見切りをつけました。

 

飲食業を始めた理由

―スキーの会社を辞めた後は、どう過ごされていたんですか?

いろんなバイトをしていました。当時から、体を動かす仕事とBtoCの仕事にやりがいを感じていました。

このときに、自分はサービス業が好きで、人に喜んでもらう仕事がしたいんだと気が付いたんです。

―それで飲食の世界に入ったんですね?

いえ、そのときに人生プランを立てて、死ぬまでに宿業をやりたいと思ったんです。まずはホテルに就職しようと思いましたが、北海道でしか就職先が見つからず、2年間そこで契約社員をしていました。

その後、東京に戻って、今度は旅館をやりたいと思いましたが、旅館は家族経営がほとんどで募集がありませんでした。

仕方ないので募集が出るのを気長に待つことにして、その間に飲食を見てみるかと思ったんです。将来的に宿業をやる以上、飲食は絶対に必要ですから。

 

初めての飲食業で店長と閉店を経験

株式会社ウィルプランニング NINJA AKASAKA 横川 毅 2

アルバイトで入った店で店長に抜擢

―アルバイトはどこの店で始めたんですか?

半年間だけやると決めて、和幸株式会社に入りました。飲食店の新規起ち上げを見たいと思っていて、ちょうど歌舞伎町の新店舗ができるというので応募しました。

でも開店前の研修が厳しすぎて、店長候補の50代くらいの男性が、今で言ううつ病になってしまったんです。それで店長候補がいなくなってしまって、ある日会社に呼ばれて、巣鴨にある既存店の店長をやってくれと言われました。

私は当時バイトでしたし、飲食の経験もありませんでした。「社員じゃないから」と断りましたが、「社員になってくれ」と言われて、店長になることになったんです。

 

初めての店は悪条件だった

―初めての店はどうでしたか?

巣鴨がどんな場所かも知らずに行ったんですが、とんでもないところでした。

そもそも巣鴨は、和幸の本社がある場所なんです。店があったのは、当時の和幸の社長の幼馴染が所有していて、借りてくれと頼まれて借りているビルでした。

巣鴨にあった店は、「新和風創作料理 庵」。当時は他になかった、ワインが飲める居酒屋で、デートで使えるようなおしゃれなところでした。

でも、巣鴨は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれているようなところで、同時に風俗街でもありました。デートで利用するには、あまりに立地が悪かったんです。

それでも、社長の友達の付き合いで借りているから、やらないといけませんでした。店は8階建てのビルの12階でしたが、他のフロアは風俗店ばかりの風俗ビルでした。

周囲も風俗店やキャバクラ、パチンコ店ばかりです。そんな立地の悪さもあって、私が店長として入る前の段階で、毎月200万円の赤字を出しているような状態でした。

シェフも悪い職人肌で、ラストオーダー5分前には切り上げるような人だったので、ノイローゼになりましたね。

それでもランチを頑張るなどして、60万~20万円くらいの赤字には回復できました。その間、シェフのご機嫌取りもしていましたよ。

調理のことを知らないから、シェフにはバカにされて、対等に渡り合えませんでした。飲食業では、シェフとの間の壁が低いほど、店も良くなると言われています。でも私には調理経験がなかったので、壁は一定のところから下がりませんでした。

結局、和幸の社長が息子に代替わりして、そのときに閉店が決まりました。

 

5店舗の閉店を経験して…

50年続く飲食店を前提に店作りをする

―閉店が決まったときは、どんな気持ちでしたか?

このときは、本当に辛かったです。閉店と決まった途端に、お客さんが誰も来なくなってしまったんです。

オープン時は夢と希望があるから、どれだけ辛くても頑張れます。でも、閉店時は何も前向きな気持ちがありません。

思い入れがある店が受け入れられず、誰にも惜しまれずに閉店していくのは本当に辛いことです。こんな思いは自分もしたくないし、スタッフにも経験させたくありません。

だから今は、30年、50年続く業態を大前提に店作りをしています。

 

店が潰れたら経営者の責任

―閉店の理由については、どのように捉えていますか?

閉店の責任は、全て経営者にあると思っています。2001年にウィルプランニングができてから、弊社は5つの店を閉店しています。

そのうちの3店舗は、完全に運営の問題でした。自分がやっていたらと思うこともありましたが、そもそも従業員ができなければ、それはやるべきじゃありません。

自分たちの会社の社員のレベルで成功できないということは、その店を世に生み出した経営者の責任です。その部分の判断は経営者の仕事で、経営者としての判断をミスしたということです。

 

ウィルプランニングに入社

NINJAで調理を経験

―2001年にウィルプランニングが設立され、横川社長はそこに加わることになります。

巣鴨の庵でのマネージャー経験で、調理師側の目線がないと飲食経営はやっていけないことを痛感しました。自分が調理を知らなかったから、シェフと歩み寄れなかった。だから、生まれて初めて父に頭を下げて、ウィルプランニングが経営するNINJAの厨房に入れてもらったんです。

NINJAは父が事実上のオーナーだったので、目の前にあるものを手っ取り早く利用しようという気持ちもありました。でも比較されたくはなかったので、末永く父の息のかかったところにいるつもりはありませんでした。

 

マンハッタン・ダイニングでマネージャーを経験

―その後はしばらく厨房にいたんですか?

いえ、厨房は半年で飽きてしまいました。厨房がどういうものか把握できたし、専門用語もある程度身につき、そこで働く人たちのモチベーションにも触れられたことでひとまずの目的は達成したんです。

その次に、福島県の郡山にある「マンハッタン・ダイニング」という店に行きました。この店は「お箸で食べられるフレンチ」がテーマのファミリーレストランで、東京でやればいいのに、なぜか郡山にあったんです。

ここも毎月200万円の赤字を出していました。当時のマネージャーが降ろされることは決まっていましたが、後任が決まっていませんでした。

そこで、私が行きましょうかと手を挙げたんです。このときは厨房の経験を積んで、マネージャーとしてリベンジしたい気持ちになっていました。

200万円の赤字だったので、当時打たれていたCMもやめて、おしゃれなのも全部やめて、地元の色に合わせて、数字を改善していきました。

色々変えていくと、厨房の人間が変化を嫌って辞めていきます。でも、厨房がいないなら自分がやればいいと思ってやっていました。

実際に厨房に入ると、経験が役に立って、シェフも対等に接してくれるようになりました。これで、店自体が良くなったのを感じましたね。

NINJA NEW YORKに参加

―マンハッタン・ダイニングにはどれくらいいたんですか?

1年半やった後に閉じて、2004年にニューヨークに行きました。フランチャイズなんですが、「NINJA NEW YORK」の出店が決まったんです。

私も行きたいと手を挙げて、ニューヨーク行きが決まりました。当初は3年の予定でしたが、日本人オーナーだったため事業のスタートが思うようにいかず、人件費削減のために、大半の人間が1年目で切られてしまいました。こうして、私も1年で日本に戻ることになってしまったんです。

ただ、そんなNINJA NEW YORKもその後に成長し、今ではNINJA赤坂より客数が多くなっています。

 

初めて自分の店を経営

―2007年に自分の店である「BANQUE(バンク)」を開店することになります。

いつも誰かが作ったお店だったので、今度は自分が良いと思う店を創ってみたいと思ったんです。ニューヨークから帰ってきて、自分の席もないし、時間もあったので良い機会でした。

BANQUEは「ワイン&レストラン」。レストランであり、ワインバーでもあるという店です。

初めての経営はうまくいきましたか?

ここでは、経営の難しさを知りました。2年くらいやった後、一緒にやっていたソムリエに店を任せたのですが、そのときワインの横領にあってしまったのです。

その人は独立して自分の店を持つため、毎日ワインを数本ずつ持って帰って、2年くらいかけて貯めていました。

彼が犯罪を犯したことよりも、彼に犯罪を犯させてしまう隙を作った自分に反省しました。任せるという意味を根本から考えさせてくれる事件でした。

 

経営店のコンセプト

―横川社長が経営される店のコンセプトを教えてください

外食で、お客様の心を豊かにすることです。日本は経済大国と呼ばれて、豊かになったように見えますが、心の豊かさは欧州諸国や、世界の富裕層に比べると大分劣っていると感じます。

毎日の習慣や生活の積み重ねが、人を豊かにしていきます。その中心になっているものの一つが「食」です。

人の心は、体験でしか豊かになりません。数ある体験のなかの食体験を通じて、人の心を豊かにするのが外食の存在価値です。心が豊かになれるかどうかが、幸せになれるかどうかを決めます。

幸せになるためには、お金とお金じゃない物のバランスが大事だと思います。私は人生のなかで、お金じゃないものをバランスよく手に入れたい。自分はそういう仕事に携わりつつ、お客様にも同じ価値観を提供して、お客様と一緒に豊かになっていきたい。

我々の作っている店創りの根底には、この気持ちがあります。

 

―お客様にサービスを提供するうえで意識していることは?

食文化を豊かにすること、向上させることを考えてやっています。また、お客様に新しい体験をしていただくのが我々のメインの仕事です。

例えば、豚丼屋の話をしましょう。我々は食文化を大事にしたいという理由で、炭を使って豚肉を焼きます。ガスのメーカーさんは、炭もガスも一緒と言います。しかし食べれば分かりますが、この2つでは味が全く違うんです。

炭を使って燻すと、落ちたタレが炭で焼けて煙が上がって、香ばしい香りがします。100年前、熱源がない当時の人たちは、きっと同じことをしていたはずです。

また、豚丼には蓋を付けるのも我々のこだわりです。フレンチでは銀の蓋を一斉に開けて、それを見た人が「うわぁー」となりますよね。中身が分からない物を目の前で開けたほうが、嬉しさが倍増するんです。

期待値を上げるため、ステージの幕はぎりぎりまで閉じておきます。そしてお客様には、自分の手で蓋を開けてもらいたい。

豚丼ができてから蓋を開けるまでの時間は1分もないので、無駄だという声もたくさんあります。でも、その無駄に全てが詰まっていると思っているから、なくしたくないんです。

このように、小さな驚きや小さな発見で、お客様をはっとさせられる体験を提供しています。

 

社内での教育体制

株式会社ウィルプランニング NINJA AKASAKA 横川 毅 3

社員教育は子育てと一緒

―社員を教育するうえで意識していることは?

これは家庭教育、子育てと全く一緒です。子育てをするのに、マニュアルを作りますか?

ルールはありますよ。「法律は守りましょう」「ちゃんとあいさつしましょう」「報連相してください」こんなことくらいです。

うちでは、マニュアルは作りません。なぜなら、うちはマニュアルの上に機械のように人を乗せてやっているチェーン店ではないからです。

一人ひとりの性格を理解したうえで、一人ひとりに対する言い方、接し方、褒め方、叱り方を考えています。

 

経営者自ら現場に出ることの重要性

―それは横川社長しかできなくないですか?

そこは親や兄弟と一緒です。上の人間が見本を見せて、下の人間は見本を見せられて初めて分かります。

だから、一番上の人間が率先してやっていくんです。自分がトイレ掃除を率先してやると、他の子もやらなきゃと思うようになります。

スタッフから目を離すと、スマホをいじりだしたり、座ってタバコを吸い出したりするのが当たり前です。それを見つけて怒鳴るのではなく、どうやったらさせないようにするかを考えるんです。

誰の目もないところで、やっちゃまずいと本人が思うような環境や気持ちを、マネージメントが作っていかなければなりません。マネージャーができないなら、さらにその上がやります。そうすれば、いずれマネージャーができるようになります。

上の人間が変わらないと、下の人間も変わりません。下が変わると、その下も変わります。つまり、店の経営は経営者に懸かっているんです。

飲食店は、経営者が現場に出て積極的に関わらないと、悪い方向に行ってしまいます。社長として現場に関わりたいと思わなければ、会社は成長しません。

 

―横川社長は、今でも現場に出ているんですか?

私は今でもNINJAのバーに入って、深夜1時~2時くらいまで働いています。全社が休みのとき以外はなかなか心配で休めないので、休日という休日は三が日くらいです。どの従業員より一番やらないといけないと思っています、私の場合ですが。

飲食という業種は、どんな規模であっても、みんなチーム戦です。誰かのおかげで勝つ試合もなければ、誰かのせいで負ける試合もありません。

野球で言うなら、新入社員だろうが社長だろうが、打つ順番や守る場所が違うだけです。だから、社長が守備に就かなくていいという話ではないんです。

私の役割は、どこかで火が出たら、それを消しに行くこと。それを消したら別の場所にまた火が出て、またそれを消しにいく。それが延々と続きます。

今後の目標

―最後に、今後の目標や理想を聞かせてください。

目標は、一つでも多く店を創りたいということです。こういう店があったらいいなというアイディアは、山ほどあります。

ですが、お金と人とご縁とタイミングがきっちり合わないと店は出せません。まさにこの時だというときにやらないと、上手くいかないんです。

私が人生も含めて心がけているのが、「周りの流れを自分では絶対に変えない」ということです。自分の力で無理やり変えてしまうと、必ずひずみが生じます。川の流れと同じです。

これでは周りが見えなくなるし、大きな事故につながることが多いんです。やりたいことに対して努力はしますが、流れに身を任せたうえで、タイミングがはまったときまで動きません。

 

―本日はありがとうございました。

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