特集記事【株式会社日と々と 山本拓三】ビジョンよりもブランドを大切に。「日と々と」社長が考える、仕事との向き合い方

株式会社日と々と 山本拓三 8

プロフィール

株式会社日と々と 代表取締役 山本拓三(やまもと たくぞう)

1977年9月28日生まれ 大阪府堺市出身

不動産会社に5年勤めたのち、その子会社で2年間経営に携わり、再開発事業を担当。
リーマンショックをきっかけに飲食事業を子会社から引き取り、「パンとエスプレッソと」などの経営を再建。
現在はのれん分け店舗を含め、19の店の経営に携わっている。

■企業HP

https://bread-espresso.jp/index.html

なんでもありの労働環境から学んだこと

学生時代はバイト漬け

ー学生時代からお忙しくされていたと伺っています。

そうですね、学生時代とにかくバイト漬けという感じでした。
家庭環境の都合もあって学校に必要なお金も自分で稼がなきゃということで、高校時代は未成年でも実入りの良い肉体労働に従事することが多かったですね。

コンビニとか郵便局の仕事もやりましたが、特に長かったのは引越し屋と大工、そして市場の配達の仕事でした。
こういった仕事は確かにそれなりにお金がもらえる仕事ではありますが、とにかく重労働なのでまだ体の出来上がっていない高校生には大きな負担がかかるんですよね。

でも僕よりはるかに先輩の人たちは軽々とそういう仕事をやってのける上、僕がどうしても足を引っ張ってしまうために厳しく怒られていました。
時代が時代なので、今だったらパワハラで訴えられるんじゃないかっていうくらいにしごきはすごかったんですが、おかげで「仕事のきつさ」とはこういうものだ、ということを子供のうちから経験させてもらうことができました。

あともう一つこういう現場で得られたのが、やっぱりきちんとスーツを着て働きたいという思いでした。
いくら高校生にとっては実入りがいいと言っても、肉体労働を死ぬまで続けるというのは無理があることはその時にも理解できましたし、きちんとした会社に入って、お勤めの人としてしっかり働いてみたいという憧れが生まれたんです。

そのためにも勉強をしなきゃということで、高校を卒業した後はしっかりと大学に入学しました。
ただ、大学に入ったとはいえ、やってることは結局バイトでした(笑)。友人にホテルのバイトを紹介され、そこに4年間お世話になったんです。

ーホテルバイトと肉体労働では、やはり違いは大きかったですか。
得られる経験の違いとか、新しい発見はホテルバイトにはありましたね。
一番大きかったのは、まず自分のことを客観的に見ることができるようになったことでしょうか。

ホテルはいわゆる引越しバイトなんかとは違って、サービス業ですからその接客態度というのが重要になってくるんです。
肉体労働ばかりしていた僕は綺麗な身なりなんかに気を使ったことがなかったもので、最初はそういうところを指導してもらって、「人前ではこうしないといけないんだ」ということを学ぶことができました。何しろ普通のバイトの面接に行って落とされるほどひどい態度とか身なりをしていたものですから、相当酷かったと思います(笑)。
こういうのって人に言われないと気づかないものなので、ありがたい経験でしたね。

後はいかにして効率よく働くかという術を、ホテルの現場では身につきました。
ホテルはホテルで肉体労働の仕事とは違った忙しさがあって、結婚式のセッティングのスケジュールが詰まっている中、宿泊客の方の接客もしなければならないということで、精神と肉体の両方を使わないといけないんです。

スムーズにこれらの業務をこなすためにはとにかく頭の中で仕事の段取りを決めて、効率よく働く意識が求められます。幸いにも僕はこういうことが得意で、高校時代の経験から激務にも慣れていたので、周りの人たちは僕のことを高く評価してくれていました。
一時期は社員と同じ仕事をするくらいには認められていたので、周りから信頼されるのは嬉しいことでしたね。

経理の仕事から見えたこと

そんなバイト漬けの生活を送っていたものですから、大学の単位の方がかなり危うくなってしまっていました。

4年生になって就職活動の時期に入ったのはいいものの、そのタイミングで僕は卒業見込みが立っていなかったので、12月になってようやく卒業ができるかもというところにきて、その時点で新卒を受け入れてくれそうな会社に滑り込むような形で入社が決まったんです。

社歴も当時で60年くらいあって、なんでも手がけている総合商社ということでそれなりに期待を膨らませて入社してみたのはいいものの、入ってみるととんでもないブラック企業でした。

ーその会社ではどのような業務を担当されていたのでしょうか。
最初は研修ということで営業なども行なっていましたが、配属されたのは経理でした。

ただこの会社の経理というものがまたとんでもないところで、優秀な先輩方は後から入ってきた人に引き継ぎだけ行なって、自分は転職してしまうということを繰り返してきたので、業務はもはや手探りで行うという状態が当たり前になっていたんです。

そんなわけで僕も割と大きな仕事を早いうちから任されていたのですが、それなりに大きな会社ということもあり、次々と決算の仕事をこなしていかなければいけないような状態でした。

税理士に相談しながら降ってくる仕事を次々とこなしていたのですが、当時僕は結婚を考えていたこともあり、流石にそろそろしっかりとした会社で働かないといけないなということで、2年ほど働いたところでその会社からは離れました。

それで転職先に選んだ企業は、いわゆるITバブルで乗りに乗っているベンチャー企業でした。
非常に勢いがあって、僕が入社して間もなく上場してしまうくらいの会社でしたが、新しい会社ということもあって、経理がかなりずさんだったんです。

そこで僕も経理として一肌脱ぐことになり、会社の財布事情に近いところで働けたこともあって、投資家を回ったり、いろんな事業に顔を出すことができたり、プレゼン資料を作ったりとなんでもこなす機会がありました。

その会社には5年ほどお世話になりましたが、とにかく最初は羽振りが良くて、社内バブルに浮かれていました。
それが楽しかった一方で、僕は経理として会社の財務事情を把握していたこともあり、一概に喜べない事態が差し迫っていたことも把握していたんです。

リーマンショックをきっかけに飲食事業へ

株式会社日と々と 山本拓三 4

赤字まみれの飲食事業

ーそこから飲食事業へと転換していった事情を教えてください。
もともとその会社は不動産を扱うことで財を成してきたのですが、取引を重ねる中で、いわゆる「不良物件」も徐々に蓄えていっていました。

当時の社長としては、いずれ不動産は全部売り払って、IT投資に切り替えていくと決めていたので、そこまで大きな問題としては扱われなかったんですが、そんな矢先に起こったのがリーマンショックでした。

そこで本格的に不動産事業は切り離す動きが始まっていって、本業とは関係ない事業も次々と子会社化して、リストラも進めていったんです。
そんな中、大阪の再開発プロジェクトを担当する不動産事業で子会社化が行われ、そこの経営を任されたのが僕だったんです。

その会社は再開発が終わればお開きという形で残されたものだったので、新しく事業を始めるというプランもなかったんですが、子会社化とともに一緒にくっついてきたのが飲食事業でした。

大阪に2店舗、東京に1店舗を展開する飲食業でしたが、どちらも赤字がひどく、自社物件のテナントで家賃を滞納してしまっている始末だったので、扱いに困っていたんです。

そして再開発が落ち着いた頃、事実上のクーデターのような形で、僕は経営の立場を追われるような形になったんです。
それも赤字を抱える飲食事業を引き取るようなケースで追い立てられてしまい、いよいよ本格的に飲食事業に本腰を入れざるを得なくなったのがこのタイミングです。

黒字へと転換できた理由

ー赤字スタートの飲食事業ということでしたが、どのように黒字へと転換されたのでしょうか。
黒字化には結構時間がかかりました。まず、大阪の2店舗はすぐに売却先が見つかったのですが、問題なのは東京の店舗でした。
こちらが最も赤字がひどく、扱いに困っていたんですが、ある時、売却ができるかもしれないということで、話が少しづつ進んでいたんです。

しかし2011年、東日本大震災が起きてしまい、この売却の話は立ち消えとなってしまいました。
加えて震災の影響でお客さんも遠のいてしまい、とにかく今は赤字を少しでもプラスに変えていかなければならないということで、できることから始めていこうと思ったんです。

それでまず始めたのが、パンの移動販売でした。
安いトラックを買って、パンをいろいろなところで売れるようにして、売り上げを作っていこうと考えたのですが、今度は従業員が震災の影響で田舎へ帰ってしまって、働き手や焼き手がいないということで、店の運営ができない窮地に立たされてしまったんです。

ただ、当時その店のメニュー考案やパンを焼いてくれていたスタッフが、直前にやめていたにも関わらず店で焼いてくれることとなり、それに続いて他のスタッフも店へと帰ってきてくれました。

いざ店を再スタートさせていくぞというところでしたが、なかなか思うようにはなりませんでした。最初に戻ってきてくれたスタッフは、働き方や考え方の違いで同じ店では働けないということになったんです。

スタッフ事情が厳しいということで安易にやめてもらうわけにもいかず、当人には確かなパン作りの技術もあったので、あえて世田谷の経堂に彼用の店舗を用意し、多店舗経営で赤字を減らしていく方針へとシフトしました。

この辺りから風向きが変わっていって、経堂のお店もそれなり売り上げが出るようになっていたのですが、何より大きなヒットになったのは本店の方でした。

伊勢丹のイベントに出店していた食パンが大ヒットして、いろいろなメディアでも取り上げられることとなり、その他の店舗でもフレンチトーストを出すなど、本格的にパンを事業として推し進めていくことになっていったんです。

そして黒字化に少し転換した頃、3店舗目を出す話になりました。本店に立派な工房があったこともあり、ここから配送してパンを販売できるお店が欲しいということで計画を進めていたのですが、ここではパニーニの専門店を出店したんです。

当時ベーグル専門店が近くで流行っていて、うちでもこういうことができたらと思っていたので始めたパニーニですが、もう少しインパクトが欲しいなということで、池袋にも同時にパニーニ専門店を出店しました。

そこまで経営がうなぎのぼりだったわけではないのですが、新しいことは積極的に試していきたい姿勢は大切にしていましたね。
サードウェーブコーヒーもブルーボトルが上陸する前にうちでは提供していたので、常にチャレンジし続けることを忘れていなかったと思います。

山本社長のこれから

ビジョンは「特になし」

ー現在19店舗をお持ちということですが、今後の目標は何かありますか。
具体的な店舗数の目標みたいなものは特にないですね。
スタッフと相談しながらゆっくり増えていけば良いと思っているので、そこまで目標に向かって店舗を増やしている意識もありません。

もともと、僕はあまり大きなビジョンを持つのが苦手なタイプで、社員やお客さんにそういった話をすることはありません。
たとえスタッフに尋ねられても、「自分の人生なんだから、自分で考えてほしい」とバッサリ言うようにしています(笑)。

というのも自分が考えていることというのは一年もすれば変わってくるものですし、世の中の様子だって変わっていきます。
一つのビジョンに固執してしまうと、それこそ身動きが取れなくなってしまうので、そこに乱されてしまうことは避けたいんです。

今やりたいことをあえて話すなら、海外出店はもう一度チャレンジしたいなと考えています。
以前に一度台湾へ出店したことがあるのですが、その時はあえなく失敗してしまいました。
もう少し会社として体力がついてから、再び海外にもお店は出してみたいと思います。

ブランドの重要性

ー顧客体験の上で大切にされていることはありますか。
これといった施策は思いつかないのですが、ブランド意識はかなり高い水準で維持するよう努めていると思います。

ブランドロゴからメニュー、味、内装まで、その名前を見ただけでクオリティを理科してもらえるようにしています。
内装なんかは地域差も意識しつつ、そのお店の客層や雰囲気に合わせて少しづつアレンジを加えていますが、アイデア出しを僕が行なっていることもあり、なんとなく系列店同士の雰囲気は似ていますね。

ブランドイメージの維持は、集客と採用の面でも良い影響があります。
お客さんには「ここに来ればあの味が食べられる」「見たことないメニューだけどここのブランドなら美味しいだろう」と手に取ってもらうことができますし、うちのお店で働きたいという人も、そのブランドイメージに憧れたり、共感を持ってたどり着いてくれるので、採用後も齟齬が無く働いてもらうことができます。
この点については今後もしっかりと維持していきたいと考えています。

ー本日はありがとうございました。

Food Media(フードメディア)がお届けする飲食業界の最新ニュースや業界動向をお届けするWEBメディア

特集記事カテゴリの最新記事